或る女(後編)

或る女(後編)

小説家、評論家。明治11年3月4日~大正12年6月9日。東京府小石川水道町に生まれる。明治29年、農業革新の理想を抱いて札幌農学校に入学。キリスト教に接近するも、後に背教することになる。明治43年、雑誌「白樺」に同人として参加し、文学活動に入る。大正6年に発表した「カインの末裔」などにより、作家としての地歩を確立。自己の本然の要求に生きようとする人間と環境との相克を描いた。特に、近代的自我にめざめた女性の破滅を描いた「或る女」(明治44~大正8)は、近代日本文学史上、屈指の傑作と評価される。また、「惜みなく愛は奪う」(大正6)など、評論でも独自の生命哲学を展開し、労働運動の激化に対する自己の態度を表明した「宣言一つ」(大正11)は大きな反響を呼んだ。大正12年6月9日、人妻であった波多野秋子と軽井沢で心中。享年45歳。代表作は「カインの末裔」、「生れ出づる悩み」、「或る女」、「宣言一つ」、「星座」など。

 実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香(こう)のにおいがかすかに動くだけだった。
「あんなに謙遜(けんそん)な岡君も(岡はあわててその賛辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
 葉子は美しい沈黙をがさつな手でかき乱された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、
「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたしどなたにでも申し上げていた事ですわ」
「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」